| 1998年8月15日 辻 真須彦 |
みなさん!! 今日は、8月15日、終戦記念日です。この日になるとボクは「終戦」 と言う言葉の重さを考え、あの53年前のこの日を思い出します。 この1945年08月15日と言う日、ボクは学校へも行かず、北上川で釣り をしていました。ボクが疎開させられていた宮城県の登米町です。ボク は中学校の1年生。確かこの年の7月初旬頃から、ボクはもう学校へ行 くのを止めていました。いわゆる「登校拒否」です。学校へ行っても、 軍事教練か、松根(ショウコン油)掘り。それと、配属将校によって、 何度も何度も繰り返し「一億玉砕」「全員が死ぬ決意」をタタキ込まれ る。 その上に、ボクは「疎開っ子」と言うことで、当時のイジメに合い、 配属将校からも目を付けられて、すぐ殴られる日々を送っていました。 それで学校へは行かないことにしたのです。幸い、その中学校は、登米 から遠い佐沼にあったので、学校側が追っかけて来てボクを捕まえるこ とはしなかったのです。掴まったら、殴り殺されていたかもしれません。 しかし、この地方の農民の間では、既に「日本は負ける」と言う噂が 広がっていて、みんな食料の備蓄を始めていました。ボクは、学校へは 行かず、毎日毎日、川で釣りをしていました。そこで取れる「ハヤ」や 「ヤマベ」が、唯一の動物性タンパク質だったのです。ボクは、ボクの オバアさんと2人で暮らしていました。オバアさんは、自分の着物とか を売って、それでお米を手に入れていました。 8月10日頃から、ヒロシマに「新型爆弾」が落とされたと言う噂が 広がり、この町もいよいよ食料の隠匿が本格的になって来ました。ボク ら疎開人には、喰えるものを売ってくれないのです。毎日がヒモじい、 腹が減っても喰うものがない生活。ボクは、今でも、あの頃を思うと、 涙が出てしまうのです。 8月15日、ボクが川で釣りをしていると、中学の、もう一人の疎開っ 子である佐藤くんが、岸で大きな声を出し、手を振っていた。ボクが岸 に上がると、佐藤くんが言った「辻くん!戦争は終わったよ」と。ボク らは、それから川の土手に上がり、コンクリートの護岸に腰掛けて長い 間話をしていました。「東京は焼け野原で、死人がいっぱいだそうだ。」 「ボクらの家はどうなったのかしら?」「どうすれば東京へ帰れるのか」 「アメリカ軍が上陸して来て、日本人は殺されるかもしれない。」 ボクは、中学1年生ながら、「戦争が終わった」と言うことに、言葉 では言い尽くせない、ある種の感動を感じていました。「平和」それは クチに出してはいけない言葉。禁句だったのです。もうボクは配属将校 に殴られることもないし、特攻帰りの上級生に「訓練」と称するヤキを 入れられることもない。もしかしたら、東京へも帰れるし、再び家族が 一緒に暮らせるかもしれない。当時、弟は同じ登米町で集団疎開。父は、 岩手県の黒沢尻の「米軍捕虜収容所」で通訳をしていた。家族全員がバ ラバラになり、いつ空襲で死ぬかもしれなかった。そんな生活は、もう 終わりなのだ。 ボクは、その時一緒だった佐藤くんに会いたいのです。確か、東京の 大井町から登米に来ていたと記憶しているのです。そして、あの8月15 日のことを、お互いに話し合って、記憶を確かめたいのです。 その年の10月頃、ボクは(片足のない)ボクのオバアさんを連れて、 列車の連結部に夜通し座って、東京へ帰りました。列車は満員で、窓に も人が掴まっていた。東京へ着いた。東京は、見渡す限りの焼け野原。 ボクは上野から、どうやって西荻窪の家にたどり着いたのか、それさえ 記憶にないのです。しかし、母や、姉たちやを見て、突然泣き出したの を微かに覚えています。 あれから53年が経った。でも、あの恐怖に満ちた日々。そして空腹 を抱える毎日。これを忘れることはないだろう。ボクは、今日8月15 日が来ると、どうしても、こんな体験をしたことがない、若いみなさん にも、ぜひこのことを話したいのです。そして平和の意味を考えたいの です。 辻バード |