「ボクの味て歩き」 行き付けの店たち(4) 「天悦」(テンプラ)
辻 真須彦 1986/06/05 パンニュース
 ボクは長いこと,釣り気違いだった。それも海釣りだけ。特に「皮はぎ」「かれい」それと「鰭(きす)」専門で,毎週のように出かけたものだ。皮はぎは勿論「本かわはぎ」で,俗に言う「うまずら」ではない。11月頃の皮はぎは,肝臓が肥大していて,これがフォアグラそこのけの味がする。

 この肝を湯がいて醤油にとかし,薄づくりにした皮はぎを付けて食べれば,素晴らしいオードブルになる。そこで,鍋を始めるのだが,釣り場から直行した皮はぎは,まったく味が違う。春菊,ねぎ,白滝,それに油揚げ,これが付け合わせの具である。白菜は絶対に入れない。たれは当家の秘伝「数の子醤油」のポンず味。「ふぐ」そこのけに美味い。
 「鰭・めごち」が釣れたら,我が家は必ず天麩羅となる。もちろん調理はいっさいボクがやる。先に「鰭の薄づくり」を出しておいて魚をひらき,揚げ方に徹する。最後にやっと自分が食べる。五十匹もやれば,朝が早かったのでクタクタだ。

 てんぷらの本道は,鰭・めごち・あなご・車海老・小柱それと今は幻の魚となった「ぎんぽう」,全て「江戸前でとれる小魚類」である。特に「めごち」などは,てんぷらねた以外には喰いようのない魚だ。「鰭」もほぼ同様,特に重要なねただと思う。今でも「江戸前」が珍重される。
 新宿はてんぷら屋が多いところで「天春」「天兼」「船橋屋」「綱八本店」等,有名な店が色々ある。だけど,ボクが何時も行くのは「天悦」だけだ。もう25年も通っていて,昼飯に天丼を食いに行く。この天丼がめっぽう旨い。お世辞にも,きれいな店とはいえない小さなてんぷら屋で,10人のカウンターと4人がなんとか座れるけこみがある。

 主人とその奥さん,たった2人の店だが出前もやっている。尤も昼飯時はいつも満員で,ボクは1時過ぎに行くことにしている。ガラッと戸を開けて「ネタいいのある?」と聞く。「素晴らしい活あなごが入ったし,鰭もいいのがあるよ」。そこで,はじめて店に入る。時々は「このところシケでロクなのがないよ,ごめんね」と言われてしまう。こんな時,てんぷらは止めて別なものにする。
 ボクがいつも食べるのは「上天丼」(1,300.円) なんだけど, 好みを入れて特製にしてもらう。海老を少なくして「あなご」「鰭」「めごち」等を多くしたやつで, 勿論「小柱のかき揚げ」や色どりの「ししとう」や茄子も入る超山盛りの天丼だ。ここの油は, 胡麻をサラダで割ったものだが, 胡麻だけで黒く揚げたのよりボクは好きだ。タレの掛け具合は長年のつきあいでおやじが知っている。天丼は,上から掛けたタレが天麩羅を通過して味が深くなり,飯も旨くする食い物だ。

 ボクは, カウンター越しにいつも手付きを観察する。魚の割き方, 衣の具合, ネタごとの揚げ方。実はここで「めごちのヌルの取り方」「鰭・めごちの割き方」「揚げのこつ」を教わったようなものだ。
 特製上天丼は素晴らしい食い物だ。まず, 活けあなごが文句なく旨い。大き過ぎず小いさ過ぎずを, 生きたまま割く。めごちもしっかりした中型が良い。鰭は特にいたむのが早いから難しい。フワッとした軽い甘さが残る鰭が江戸前の特徴だ。ある時, ボクが「この鰭は違う匂いがするな」と言ったら「良く分かりますね, 今日は河岸に江戸前がなくて,能登のを買ったんですが, 割くときから匂いが違うな, と思っていたんですよ」。そおいえば能登で鰭を釣った時, 底に海草が多くて, 東京湾のべた砂地とはだいぶ違うなと思ったことがある。

 ここ「天悦」で, お好み天麩羅を食べるの時もあるが,値段が手頃なので安心して注文出来る。てんぷらでも寿司でも, 勘定書きを見たとたんにギョッとなるところが多いから。