ボクの食べある記〔15〕
ヌヴェル・キュジーヌの最高峰 (2) 1983年9月
本物の「小皿多数定食」
辻 真須彦

 パリ・リュ・ド・ヴァレンヌにある「アルケストラート」は非常に目立たない石造りの
建物の一階だった。私と妹と入って行くと,入口の黒服の若い男が「マダム・ムッ
シュー」と出迎えた。午後一時からの昼食を予約した日本人は,我々しかいない
らしく,名前を聞くまでもなくテーブルに案内された。妹には,店内を見渡せる席を
すすめ,僕は厨房の扉が,開いたり閉じたりするのが見える席に座らされた。これ
がフランス的。

 僕の背中の壁には,巨大なブーケ,それも菊が多い花が飾られていた。鏡をめぐ
らせた店内は,黒に近い茶色が主色で,天井はくすんだ柿色のタイルだった。奥の
方に柳の木が立っており,手前に藤が下がっている部分もあった。通りに面したガラス
窓は,さながら障子のようなデザインに造られていた。こう書くと,なんだかジャポニカ
調の珍妙なインテリアみたいだが,全体の印象は非常に洗練され,統一した,いかにも
ヌヴェル・キュジーヌのレストランらしい,フランス的風格をもっていた。

 ギャルソンが近ずいてきて,メニューを渡し「アペリティフ?」と呟くように言った。僕が
「キールを二人に」と頼んだら「ロワイヤル?」と尻上がりに聞いてきた。妹もうなずくので
「ドウ・キール・ロワイヤル」ということになった。普通は白ワインとカシスなのだが,シャン
パンを使うのが「ロワイヤル」,もちろん値段もグッと高くなる。まあ、いいや。

 ややあって出てきたこの「キール・ロワイヤル」を舐めながら,メニューを眺めてゆく。
眺めてゆくといったって,全部がわかるわけじゃない。「ムニュ・デグスタシィオン」を探して
いるだけなのだ。ところが,どこにあるのかなかなか分からない。「あった!」,やっと見つ
けたのは,メニューの上方の左側,欄外みたいなとこに,チョコチョコと手書きで書いてある。
 
 右上がりの斜書きで「ムニュ・デグスタシィオン」,「四百十フラン」と「三百六十フラン」。
これぞ「アルケストラート」の名前を天下に知らしめた「当店推薦小皿多数定食」である。
それ以後,「デグスタシィオン」の流行は日本にも拡がり,子どもだましの押しつけ料理を
チョコチョコと出すフランス料理屋があとを絶たない。

 この際,本物中の本物,天下の「アルケストラート」の「ムニュ・デグスタシィオン」を食って
おけば,後で怖いものなし,という考えであった。そこで,安い方の三百六十フランを頼ん
でおいて「今日は何が出るんですか」と妹に聞かせた。

 ギャルソンは小声で「サラド・オマール・オー・マンゴー」「フォワグラ・オー・シュー・アラ・
ヴァプール」(これは残念ながら聞きとれなかった)「アニョー・ド・レ・・・・」と出てくる順に
料理の名前を言った。「もう一回言ってみて」僕は頼んだ。やっぱり,三皿目がわからない。
もういいや,皿を見たら分かるだろう。酒は「シャトウ・デュ・ヴァン」をすすめられたので,
それにした。

 ホッとしたところに,サッと皿が出てきた。いわゆる「アミューズ・ゲル」というやつだ。
日本流に言えば「付き出し」、料理の前のチョッとした楽しみということか。三つあるうち,
小さなパイ皮の丸いやつを口に放り込む。パリッとしたパイの中に,フアーッとカレーの
香りが広がり上品で,しかもショックを与えるような始まりだった。キールを口に含んで,
すぐ次のカナッペ状のものを噛んでみる。カキのスモークした,香ばしい香りがして,
あわてて残りも一緒に口に入れてしまった。あと一つある三角のパイ状の物ももう夢中で
食べてしまう。皮がパリッ,中がグニュッとしたもち状のもので,少しの甘味と塩味が心地よい。

  「キール・ロワイヤル」は,大きなグラスにたっぷりきたがもう少ししか残っていない。
憧れていた「アルケストラート」の食事が,いま始まろうとしている。これらの,「アミューズ・
ゲル」は,オペラの開幕を告げる序曲だ。アラン・サンドランス氏と,「アルケストラート」の
展開する食卓は,驚きと楽しみの交差の中で始まっていった。

 この後に登場した料理達のことを,いま思い出すだけで,幸せなパリの昼食が甦ってくる。


 --(3)に続く--