1957年ころの「ノビーファイブ」     辻 真須彦

 このCDは、1957年12月28日に、東京丸の内にある、外人記者クラブで
演奏したノビーファイブの録音です。この当時のノビーファイブは、主
にこの外人記者クラブを本拠にしていて、ここに出入りする外国人たち
や大使館のパーティーなどに出演していました。それと言うのも、ボク
たちが演奏するコンボ(小編成のバンド)でやるダンス音楽が、記者ク
ラブの人たちに評判がよく、あちこちからお呼びが掛かったのです。

 この頃のノビーファイブのメンバーは、主に慶応ライトミュージック・
ソサイティー(ジャズのビッグバンド)に所属して活躍していた人たち
が中心でした。1955年に大学を卒業したあと、ボクは早速メンバーを集
めて、いままのビーバップを中心にしたバンドではなく、気軽にダンス
が出来るような小編成のバンドを結成しました。それが、この時代のノ
ビーファイブなのです。ボクは、この頃25才でした。

 ノビーファイブは、1952年に、今はブラジルにいる小沢義和氏(P) と
かテナーサックスの西条孝之介氏、それに銀座の割烹料理「出井」の出
井宏和氏(ds)や松方健氏(b) らによって作られました。当初は「ビーバッ
プ・コンボ」を目指して、先鋭的 (?)な演奏をしていました。ボクは、
創立の直後に、このバンドに参加し、メンバーの移り変わりはあったも
のの、長い間ここで演奏活動を続けていました。そして、これと平行し
て学内では、ビッグバンドでの活動もしていたのです。

 ボクが大学を卒業する、丁度その頃(1955/3)、チャーリー・パー
カーが死に、日本のジャズ界には大きな転機が訪れていました。我々が
夢中で演奏していたビーバップやモダンジャズは、当時続々と来日する
ようになった、本場のミュージッシャンを聴けば聴くほど、ボクの自信
を喪失させたのです。ちょうどその頃、天才ピアニストと言われた守安
祥太郎氏が、目黒の駅で電車に飛び込み自殺しました(1955/9)。秋吉と
し子さんは渡米しました(1956)。たくさんのジャズミュージッシャンは、
アメリカのバークレー(大学)へ行って、一からジャズの理論を勉強し
はじめるようになりました。そして、いままで熱気を帯びていた東京の
ジャズシーンも、潮が引くように冷めて行きました。

 ボクは、もう「背伸び」は止めにして、気楽にジャズを演奏すること
にしました。それもあって、新しいノビーファイブを結成したのです。
幸い、活動の本拠を外人記者クラブに持てたので、ボクは本格的に「コ
ンボによるダンスバンド」と言うコンセプトを追求しました。このCD
は、その当時のボクらの演奏を記録したものです。この頃は、まだテー
プレコーダー(オープンリール)はとても貴重なもので、これを仕事場
に持ち込んで録音すると言うことは、非常に稀でした。これは、その夜
のパーティの前に、会場を貸してもらって録音したものです。

 これを録音したテープレコーダーは、当時発売されたばかりのアカイ
の組立キットでボクが作ったものです。マイクは、当時としては最高に
音が良いと言われたアイワのベロシティー型でした。ですから、元々こ
の録音には盛大なハムが入っていたのです。それをコンピュターで、ソ
フト的に取り除いたものですから、若干音が変なことろがあります。そ
れから、なに分にも40年以上も前の素人録音です。また、このテープは
現在ボロボロの状態で、ある部分はいわゆる「ワカメ状態」なのです。
ですから、音が飛ぶところとかお聞き苦しいところが沢山あります。

 しかし、ボクは、このCDを自宅のパソコンを使って、全て自分の機
材で制作しました。このジャケットも自分でデザインして作り、家にあ
るプリンターで印刷しました。この作業の間、ボクは、40年も前の素
晴らしい時代を想い出し、時々、涙が出るほどの感動を覚えました。

 このCDを、当時ボクと一緒に演奏した仲間たちにも捧げます。ボク
たちは、確実に疑い得ない音楽と青春の証を、手に入れたのです。

            03/15/1999 辻 真須彦(辻バード)